天草について

「天草」と称される地域は、熊本県の上天草市、天草市、苓北町で構成され、大小120余の島々からなる。天草諸島は、九州の有明海・八代海(不知火海)と天草灘によって囲まれた諸島であり、上島(かみしま)と下島(しもしま)を主島とする。

温暖な気候で、水産業、クルマエビ真珠などの養殖業が盛んである他、陶石生産も有名で、地元の天草陶磁器や日本各地の陶磁器の原料として多く用いられている。風光明媚であり、海水浴、イルカウォッチング、船旅、温泉などを楽しめ、熊本の代表的な観光地として一年中賑わっている。

現在は、熊本県に属するが、明治維新後1871(明治4年)までは長崎県に属した。また、長島獅子島などの諸島の一部は、戦国時代薩摩島津忠兼の侵攻があり、以後は島津氏の領地となり、現在も鹿児島県に属している。
そして天草といえば、キリシタンの島として有名である。

天草のキリスト教信仰は、1566年(永禄9年)に、当時天草を領していた志岐麟泉が、宣教師アルメイダを招いたことから始まる。実際の布教活動は、その三年後の1569年(永禄12年)の河浦から始まったようだ。それから約10年後の1580年(天正8年)には、信者は15000人を数えたと言われている(北野典夫『天草キリシタン史』葦書房)。
1587年(天正15年)、豊臣秀吉によって伴天連追放令が出された際に追放された宣教師達は、北九州及び天草に避難している(上妻博之編著『肥後切支丹史』エルピス)。その翌年、小西行長が加藤清正の援助を受け、大軍でもって天草に侵攻し、この後天草は小西行長の支配下になる。キリシタン大名であった行長によって天草のキリスト教は保護されることになった。
1582年(天正10年)派遣された天正遣欧少年使節の四人のうちの一人が日本に持ち帰った活版印刷機を用い、「伊曽保物語」「平家物語」などの「天草版」と呼ばれる印刷物が製作され、宣教師養成にも力を注いだ。しかし、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで小西行長が討ち死にしたことで支配者が変わり、また1612年(慶長17年)江戸幕府によって禁教令が発布されたこともあり、キリシタン全盛期も終わりを告げる。
過酷な税の取り立て、キリシタンの弾圧、飢饉などが要因となって、1637年(寛永14年)
から天草島原の乱が起こる。この乱の鎮圧後、天草は天領となり幕府の直轄地になる。しかし、信仰は密かに受け継がれ、天草は隠れキリシタンの島として現在も全国的に有名なのである。