妙楽寺跡(上津浦城跡周辺)

永禄九年閏八月十八日肥後天草住妙楽寺秀舜興行何路百韻』という連歌がある。

永禄九年閏八月十八日肥後天草住妙楽寺秀舜興行何路百韻は国立公文書館内閣文庫蔵『百韻連歌集』(請求番号二〇二―〇二五二)に収められている。

 木藤才蔵氏の「連歌史年表」(『連歌史論考 下 増補改訂版』明治書院)が記すように、永禄九年(一五六六)閏八月十八日に肥後天草妙楽寺住の秀舜が、京都にて興行したものである。ちなみに『国書総目録』『国書人名辞典』では、「何船百韻」となっているが、内閣文庫本では「何路百韻」となっているのでこちらを採るべきであろう。現在のところ他に伝本は知られていない。

参会者は紹巴を始めとして、秀舜、弥阿上人、清誉、玄哉、心前、能哲、英怙、道成、宗仍、長知、康清、文阿の十三人であり、『連歌総目録』(明治書院)によると、天文年間から天正年間に連歌界で活躍した人物も多く含まれている。特に紹巴は、織豊期の代表的連歌師である。出自については諸説が存在するが、連歌の名門里村家を継承し、山科言継・三条西公条らの公家や、明智光秀・細川藤孝ら京都近住の武将や多くの地方武将との交流も盛んで、京都連歌壇の第一人者となった人物である。秀舜については、この資料以外で詳細を知ることは出来なかったが、紹巴、紹巴の弟子である心前や、英怙、清誉など中央でも著名な連歌師達と、天草出身の僧が交わって連歌会を催していることは、連歌の地方への波及と、地方での享受度の高さを示している。

天草に妙楽寺が存在したことは、人吉市願成寺町の観音寺境内の観音堂にかけられている鰐口により分かっている。この鰐口の周縁には「奉施入肥州天草郡上津浦庄妙楽寺薬師如来御宝前文安五季戊辰三月日大施主上総介大蔵朝臣種和并万寿若丸敬白」と刻まれており、本来妙楽寺に奉納されたものを交流のあった相良の兵が上津浦に進駐し、引出物か戦利品の形で持ち去ったのだろうと言われている(『有明町史』有明町)。
妙楽寺は、現在の天草市有明町上津浦にあった上津浦城の付近に存在したとされるが、現在は跡もなく長閑な風景が広がるばかりである。ただし、この資料が存在することによって、この妙楽寺が確かに存在したということの証明の一端を担い、現在までその存在が語り継がれている。またこの時期には、九州出身の人物が上京し、中央で連歌会を催している例は他にも見られ、地方連歌、特に九州地方の連歌享受層が厚かったことを示す一資料ともなっている。

また、近所の人のご厚意で、世にも貴重なメダイを見せていただいた。