日本語の熊手
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日本語学小論
●日本語は音楽を聞くか● 高田 優樹
 先日、お世話になった方が異動することになり、送別会を行った。筆者は二胡という中国の伝統的な楽器を弾くので、送別会での演奏を担当することとなった。ありがたいことである。普段より練習に力が入っていたのか、オリジナル曲を書いてはどうかと考えるようになり、絶えず花を咲かせ実をつける様を出会いと別れに見立てて、庭の白梅をイメージして作曲を始めた。そこで、ひとつの疑問が生じた。なぜ音楽についての表現は聴覚を無視するのか。例えば、視覚、味覚、嗅覚、触覚にはそれぞれ白い、甘い、かぐわしい、痛いというようなそれぞれの感覚由来の語が多く用いられる。しかし、聴覚については、うるさい、など限定的な意味を除いて聞こえた音がどのようであるかを言い表すための聴覚由来の語がまるで見られないのである(筆者の語彙量に責任を求めることもできるが、それでも他の感覚語と比較して聴覚の感覚語だけをあまりにも知らないことはやはり疑問である)。ゆえに、二胡の音がどうであるかを尋ねられた時、筆者は、つやのある甘い音色で、暖かく、明るさと暗さを併せ持つような音であると説明する。このように言われても、説明された側からすれば実際に二胡を聴かなければ何のことやらサッパリである。

 まず、ものごとの様子を表す語として形容詞について考える。そもそも形容詞はものや事柄などの様子を表すものである、というのが一般的な認識であろう。さらに、荒(1989)によれば、一定の時間内に生じる現象をとらえた〈状態〉と、特定の時間の拘束を受けない〈特性〉とに大別されるという。例えば、前者は「手を切って痛い」など一時的なものであり、後者は「カラスは黒い」など一般的に特徴づけるようなものである〔1〕。とはいえ二つの意味にまたがるような語も存在するのであり、明確に線引きができない場合もある。さて、音楽を聴いたとき、我々はどのように感じるだろうか。梅を見たとき、筆者は「白い」と感じた。砂糖を舐めれば「甘い」、紅茶の香りには「かぐわしい」、皮膚をつねれば「痛い」と感じる。これらはみなそれぞれの感覚器官由来の形容詞であることがわかる。一方、二胡独奏曲「賽馬」を聴いたとき、初めに筆者が感じたのは「清々しい」という、聴覚が関係しないものであった。この一曲だけではない。どのような曲を聴いても、耳を使った形容詞が出てこないのである。代わりに出てくるのは、その曲を聴いて連想したものについての形容詞であった。「賽馬」を聴いて清々しいと感じたのも、曲から草原を颯爽と走る馬のたなびくたてがみを連想したためである。これは困った。形容詞が「状態」や「特性」を表すならば、我々は音楽がどのような状態であり、またどのような特性を有するかを、形容詞を使って直接言い表すことができないのである。音楽を聴き、どれほど心を動かされたとしても、その感動をそのまま誰かに伝えたり、書き留めたりすることができないのである。
 音を表す語として擬音語・擬声語について考える。実は、筆者はよく「この曲の『ジャーン!』という部分が好きだ」など擬音語を用いて音楽を説明することがある。このような言い方をするのは筆者だけではない。浅学な筆者と比較するわけではないが、音楽家の大橋氏もまた「ピアノのバッバッバッ≠トリズムを刻んでる音〔2〕」と、擬音語を用いて音を説明している。音について説明する場合、どのような音なのかは擬音語・擬声語を使えばある程度は伝えられるために、音を表す形容詞が極端に使われていないとも考えられる。ただし、聞いた音を擬音語を用いて表す場合、それは聞いた音を人間が発することのできる音によって再現しているに過ぎない。音楽を聴き、それがどのような音楽だったのかを言い表す術としては不十分である。
 作曲家の伊福部氏は、我々の伝統的な音楽は文学や舞踊など他の分野と結合して存在してきており、それゆえに音楽を語る場合には他の言葉を連想的に用いるのだという(ちなみに、連想ばかりの鑑賞態度では音楽の真の理解から離れてしまうというのが伊福部氏の主張である)〔3〕。つまり、音楽を音楽としてではなく、あるものが示す内容の付け足しや説明として用いており、音楽そのものには明確な意味を持たせなかったために、特別にその音楽が何を示しているかを言い表すことがなかったということらしい。今日でもそうである。映画やドラマにはたいてい主題歌が存在するが、それは物語の内容に寄り添うものであって、主役ではない。これはむしろ作品世界をより色濃くするための重要な文化であって、非難されるべきことではないと考える。一方で音楽を表現するという視点に立ったとき、こうした文化によって言葉が耳をふさがれる可能性も見出せる。

 ここまで述べたように、音楽は直接的に言葉によって表現されることはほとんどなく、連想的な言葉によって表現されることが普通である。確かに形容詞や擬音語では音楽を言い表すのには力不足であるかもしれない。なぜ音楽についての表現は聴覚を無視するのか。筆者は、それは音が目に見えないためであると考える。「赤い」「眩しい」など、視覚由来の形容詞は多い。目に見えるものは実体のあるものであり、存在するだけで人間の認識の対象となる。一方、音には実体がない。音が聞こえたとき、その音が確かに存在することを証明する客観的な手段がないのである。つまり、私が聞いた音とあなたが聞いた音とは同一であると認識できないのである。我々の先祖はこうした聴覚の共有の難しさゆえに、形容詞などを用いて音を言い表すことを避けたのではないだろうか。日本語は音楽を聴覚で捉えることにはまだ不慣れであると言えよう。いや、連想的な表現を用いることで、聴覚由来の表現を使うことなく音楽を言い表すことに慣れているのかもしれない。 ところで、音楽には「調」という概念がある。二胡における調は、簡単に言えば、弦に置く指の位置であり、これが異なれば音の印象も異なる。明るい曲が弾ける調があれば、暗い曲が弾ける調もある。筆者は庭の白梅を見上げた。花弁が白く輝く様子は明るく感じられる。しかし、そう遠くない将来散ってしまうと考えると、ただ明るいだけの花弁ではないようにも思える。では、明るい音とはどのような音だろうか。また、明るくない音とはどのような音だろうか。その言葉の意味を探るため、弦に指を置いてみる。

参考・出典
〔1〕言語学研究会編『ことばの科学3』むぎ書房 1989年 147-157頁
〔2〕スキマスイッチ『スキマスイッチの本』朝日新聞出版 2014年 41頁
〔3〕伊福部昭『音楽入門』角川ソフィア文庫 2016年 37-38頁

2018.5.10
●似た意味を持つ接続助詞〜「けれども」と「が」〜● 都築 尚子
1、はじめに
 接続助詞の「けれども」と「が」は、ほぼ同じものであり、使い分けはなされていないように思える。前田直子(1995)には「ケレドモとガ」が「完全に置き換え可能な形式であると考え、以下ではケレドモを代表として扱う。」(496頁)とある。次は、前田の例文である。
  ・薬を飲んだけれども、治らなかった。
  ・薬を飲んだが、治らなかった。
 確かに、これらは同義であるが、それらはまったく同一のものとしてよいか。本論では「けれども」や「が」の前で述べられている文を「前件」、後で述べられている文を「後件」とし、前件と後件の関係性の観点から両用法を分析する。

2、「けれども」について
 本論では「けれども」のはたらきを三つに分類する。一つ目は逆接、二つ目は前置き、三つ目は婉曲である。
@逆接
 このはたらきについては、さらに次の(A)〜(C)の三つに分類する。

(A)前件と後件が因果関係にあるもの
  1 勉強しなかったけれども、良い点が取れた。
 因果関係とは、前件の行為が要因となり後件に結果として表れることである。1の場合、「勉強しなかった」が要因、「良い点が取れた」が結果である。この例では、前件の行為から予想されるものと異なる結果が後件に表れている。つまり「勉強しなかった」から予想される結果に反して「良い点が取れた」となっている。ここに逆接のはたらきが生じる。

(B)前件の事態と似たような事態を後件に示しつつ、それらの評価が対照的になるもの
  2 私はあなたの意見を軽蔑までしなかったけれども、決して尊敬を払い得る程度にはなれなかった。(『こころ』)
 ほぼ同じ内容で少し程度差があるものを前件と後件で表現しているものである。一つの物事について違う角度から述べているため、前件と後件に程度差が表れることとなり、そこに逆接のはたらきが表れている。

(C)前件の事態と後件の事態が対立的なもの
  3 長いこと恨みがましく思っていたけれど今は違う。(「西日本新聞」)
 「長いこと恨みがましく思っていた」と「今は違う」が対立している。対立する二つの事態を結びつけているところに逆接のはたらきが表れている。

A前置き
 野田春美(1995)は「ガとノダガ」を取り上げ、これらに「前置き」のはたらきがあるとしている。また「なお、ケレド(モ)という形もガとほぼ同じ機能をもつものと考える。」(565頁)と述べて、ケレドモにも前置きのはたらきがあることを述べている。野田から引用する。

 前件の内容と後件の内容が対立しておらず、発話の中心が後件であり、後件の内容を無理なく効果的に聞き手に伝えるための準備として前件が提示されているとき、その前件を前置きと呼ぶ(565頁)

 本論では野田の前置きの用法を(A)(B)二つに分ける。

(A)前件が後件を補足的に説明しているもの(補足的説明)
  4 何度も申し上げているけれども、今はとにかく年度内に予算案を成立させたい。(「琉球新報」)
 前件と後件が対立しておらず、後件の内容が発話の中心となっている。後件だけでも文の意味は通るが、前件があることによって、より詳しい情報が得られるものである。「今はとにかく年度内に予算案を成立させたい」が発話の中心であり「何度も申し上げている」がそれを誘導するための補足的存在である。「けれども」は「通り」に置き換えることが可能であり、「けれども」は逆接のはたらきとは明らかに異なる。前件は後件の内容を効果的に聞き手に伝えるために示されているものであり、そこに前置きのはたらきが表れている。

(B)前件が慣用的に使われているもの
  5 失礼ですけれども、佐藤さんでいらっしゃいますか。
 前件は人に何か尋ねる時の切り出しである。発話の中心は後件であり、後件への入りがスムーズになるような役割を前件が担っている。つまり、会話の始まりが唐突になるのを避けるために前件があるが、言い回しが(A)よりも慣用的である。他に「悪いんですけれども」などもある。この「けれども」は前述の逆接のはたらきとは明らかに異なる。

B婉曲
 婉曲とは、『日本語文法大辞典』によると「露骨に言うのを避けて遠回しに表現することをいう。」(86頁)とある。本論でもこの意味で「婉曲」という言葉を用いる。
  6 「(前略)町田さんのような場合、手術をしてもその後のことが問題で…。可能性ゼロとは言わないんだけど…。」「先生、分かりました。」(『ビューティフルライフ』)
 後件を省略することで断定的に述べるのを避け表現を和らげている。後件に「本当は可能性がゼロに等しい」というような内容が省略されていると考えることができる点では逆接とも言えるが、後件を相手に推察してもらう用法ということで「婉曲」とし、あえて「逆接」とは区別する。

3、「が」について
 「が」の用法は、ほぼ「けれども」に置き換えることができ、それらは@逆接、A前置き、B婉曲に分類することができる。以下は、「けれども」には見られなかった用法をあげる。

C前件と後件を単に結びつけるもの
  7 インド人作家のアルンダティ・ロイは、ビンラディンはアメリカの家族だと言っているが、その見方は正しい。(「朝日新聞」)
 前置きの用法と非常に近いが、「発話の中心が後件」とまでは言えない点で異なる。前置きの用法における前件は無くても文の意味は損なわれないが、7は前件が無いと文全体の内容が十全に伝わらないものとなっている。また、前件と後件が対立している訳ではなく「言っているが」は「言っており」に換言できるので逆接とも異なる。婉曲に分類することもできない。@〜Bの用法と異なり、このような「が」は前件と後件を結びつけるだけのはたらきをする。

D一つの言い回しとして前後の句を対比的に結びつけるもの
  8 親も親だが、子も子だ。
 慣用的な表現であり、「が」を含めて一つの言い回しとなっている。他にも「ブッシュが謝ろうがどうしようが、関係ない。(「西日本新聞」)」「行こうが行くまいが、君の勝手だ。」のようなものもある。

4、「けれども」と「が」の比較
 「けれども」にも「が」にも@逆接、A前置き、B婉曲の用法がある。それぞれの用例は「けれども」と「が」の置換が可能であった。この点で「けれども」と「が」はほぼ同じはたらきをするものとして認めることができ、両者のはたらきは極めて近いと言える。(今回は文語・口語などの表現性の部分は考察外としている。)  それらの違いは、「が」のCとDの用法が「けれども」にはないということである。CとDの用法は「けれども」に置換すると、非文とまでは言えないが、違和感がある。
  7´ インド人作家のアルンダティ・ロイは、ビンラディンはアメリカの家族だと言っているけれども、その見方は正しい。
  8´ 親も親だけれども、子も子だ。
 「けれども」があることにより、前件と後件に強い因果関係があるように受け取れるので、話の流れがおかしいような印象を受ける。このような「が」を「けれども」に置き換えることは難しいと思える。
 以上のように「けれども」と「が」は、ほぼ同じように用いられるが、「が」の方が幅広い用法を持ち合わせている。  CとDの用法の存在については、「が」の出自に関係していると思われる。『日本語文法大辞典』によると、「けれども」は「古語の形容詞の已然形に接続助詞『ども』が付いたものから、語尾『けれ』以下の『けれども』の部分が一語として独立してできたもの。」(239頁)とある。一方「が」については「接続助詞は平安時代以降に格助詞から転じた語であり、主格助詞から転じたとする説がある。」(118頁)とあり、『日本語学研究事典』にも「格助詞『が』から接続助詞『が』が成立して一般化し」(239頁)たとある。已然形を構成素とする「けれども」は、その成り立ちにおいて条件を表すはたらきを持っていた。条件を受けて下につなげるというはたらきが濃厚であったため、接続助詞「けれども」は、もともと前件と後件の強い関係性を示していたことが考えられる。
 一方、接続助詞「が」のもととなったのは格助詞「が」であり、もともと条件などは表していなかった。この点で「が」の前件と後件は、必ずしも条件接続に限らず使用することができたのではないか。
 「けれども」と「が」は、変遷の過程でほぼ同一化したが、「が」の方が幅広い用法を持ち合わせている。わずかな違いであろうが、決して見逃してはならない。

5、まとめ
 T 従来の説の中には「けれども」を条件接続、「が」を列叙接続として区別するものがあるが、両者の用法はほとんど重なる。
 U 「が」には「けれども」にはない用法がある。
 V 「が」の用法の広さは、接続助詞としての成立過程に関係していると考えられる。

【参考文献】
野田春美   (1995)「ガとノダガ‐前置きの表現‐」『日本語類義表現の文法(下)複文・連文編』(くろしお出版)
飛田良文ほか(2007)『日本語学研究事典』(明治書院)
前田直子   (1995)「ケレドモ・ガとノニとテモ‐逆接を表す接続形式‐」『日本語類義表現の文法(下)複文・連文編』(くろしお出版)
山口明穂ほか(2002)『日本語文法大辞典』(明治書院)

2014.2.15 卒業論文要旨発表会にて報告
●「ばかを言え」と「ばかを言うな」について● 福岡祐子
 「あんたもいっしょに行きなはるのかいな」
 「おれ?ばかを言いなさい、この忙しいなかに!」

■論点
 『不如帰』四の四、山木とおすみの会話にて、山木が「ばかを言いなさい」と言う。それが「ばかを言うな」の意であるということを疑問に思うことはない。それくらいにこの表現は慣用化しているにもかかわらず、そのメカニズムについては明らかにされていないようである。
 なぜ「ばかを言え」で「ばかを言うな」になるのか、その理由を探す過程で、まず類似の例を考えてみる。「嘘をつけ」「ばかも休み休み言え」「ほざけ」「冗談を言え」などがそうである。この中で「嘘をつけ」について『日本国語大辞典』(小学館)と『故事・俗信ことわざ大辞典』(小学館)に記述があった。

・「うそを吐け」
  うそをつくならつけ、こちらにはわかっているぞという気持ちで、相手の言ったことが本当でないのをとがめて言う表現。うそを言うな。うそを言え。『日本国語大辞典』
・「嘘をつけ」
  嘘だということは分かっている、嘘がつきたければ勝手についていろ、自分は信用しないの意で、相手の言ったことが本当でないのをとがめていう表現。嘘をいえ。『故事・俗信ことわざ大辞典』

 つまり「嘘をつけ」というのは「嘘をつくならつけ。ただし私には通用しないぞ」という心理を伴うたしなめだということだ。前述の他の例についても同様に考えてみると、「ばかも休み休み言え」は「ばかを言いたいならよく考えてからにしろ。私には通用しない」というような解釈で問題ないであろうし、「ほざけ」は「勝手にほざいていろ。私には通用しない」、「冗談を言え」は「冗談を言うなら言え。私には通用しない」と考えることができる。これらの表現は、背後に「私には通用しない」「私は分かっているぞ」「勝手にやっていろ」という心理を従えていて、こちらが相手の心理を汲み取っている姿勢を示して出端をくじく心理攻撃的性質が強まっていると言えるであろう。こちらには通用しないということをあらかじめ挑戦的に命令形で言うことで、相手を怯ませ、突き放す力が大きくなっていると考えられるのである。
 しかし、この説明が広く通用するというわけではない。まず、「梨をたべろ」と言って「梨を食べるな」という意味だと受け取るのは難しい。「今電話しろ」と言って「今電話をするな」という意味にもならない。これらは「私には通用しないぞ」という心理を伴うことができない。そもそも「食べる」ことも「電話する」ことも個人で行なわれることで、他者とのコミュニケーションが発生しない。命令形で禁止の意味として通用する言葉の動詞は、自者的な行為というよりも、発話によって他者に精神的なダメージを与えるような行為、すなわち「嘘をつく」「ばかを言う」「ほざく」「冗談を言う」(但し、「無理をいう」の意)などに限られてくると思われる。
 つまり、何故「ばかを言え」という命令で「ばかを言うな」という禁止の意になるかという問題は、命令形や禁止表現の問題というよりは慣用化される過程での認識問題といえるのではないか。すなわち「嘘をつく」「ばかを言う」「ほざく」「冗談を言う」というような、これらの言葉の共通点を考えることが「ばかを言え」で「ばかを言うな」になるメカニズムを導き出すことにつながる。

■考察
 「嘘をつけ」「ばかを言え」「ほざけ」「冗談を言え」の表現が挑発的に突き放す表現であるということを考えてみる。「嘘をつけ」と挑発されて実際に嘘をつくと、挑発された者は「嘘つき」の烙印を押されることとなる。「ばかを言え」と言われてばかを言えば、「馬鹿者」になってしまう。「ほざけ」と言われてほざいてみても、聞き手が耳を塞げばそれは空しく辺りに木霊するだけで会話が絶たれてしまう。「冗談を言え」と言われて冗談を言っても、それは冗談として流されてしまう。つまりこれらの表現は、その挑発に乗ってしまうと、相手に心理防衛されるばかりか、話者自身にその攻撃の矛先が跳ね返り、結果自分の首を絞めることとなってしまうような言葉である。そういったメカニズムの中で慣用化し、これらの言葉が現在違和感なく受け入れられる表現として生きていると考えることができる。
 では、同じような性質にあると思われる「茶化す」や「冷やかす」という言葉を「茶化せ」「冷やかせ」と言えないのは何故か。それぞれ「茶化すなら茶化せ。私には通用しないぞ」「冷やかすなら冷やかせ。私には通用しないぞ」と考えることができ、挑発された者がそれに受けてたってしまうと、その人は自らを「私は人を茶化すようなろくでもない奴です」だとか「私は人を冷やかすようないやな奴です」と認めてしまうことになるだろう。これまでの考え方からすれば、「茶化せ」「冷やかせ」について、慣用化していてもおかしくないことになる。この点について、第一に考えることは、行為性の希薄さというものが関わっているのではないかということである。「嘘をつく」「ばかを言う」「ほざく」「冗談をいう」はいずれも「発言」による(「言う」という動詞と密接である)行為であり、しかも「発言する」行為に重きがあるのに対し、「茶化す」や「冷やかす」のようなものは、「発言する」行為よりも、「発言される内容」により重点の置かれる行為であると思われる。具体性の欠けた動きを指す動詞は、慣用化しにくかったという可能性が考えられはしないか。例えば「悪態を吐く」は「吐く」行為よりも「悪態」に重点があるため、「悪態を吐け」のようには慣用化しない。
 第二に「言う」という動詞について着目してみる。「言え」という動詞単独の命令で「言うな」という意味になるとは考えにくいが、「言っていろ」というと、「私には通用しないぞ」というニュアンスを表現できると思われる。「〜ていろ」は存続、持続の表現「〜ている」の命令形である。「〜ていろ」の命令表現自体に「一人で、勝手にしていろ」という挑発性と持続性が含まれていることが多い。Google(http://www.google.co.jp/)で検索してみても、「茶化して(い)ろ」「冷やかして(い)ろ」という表現はあまり見受けられない。「茶化す」や「冷やかす」という行為は、時間の一点のうちしか表わさず(つまり、短時間になされる行為であり)、ずっと茶化している場面、ずっと冷やかしている場面というものが想像しにくいと感じる。「茶化せ」や「冷やかせ」のような表現は、「一人でずっとしていろ」という突き放しがしにくいが故に慣用化しないと考えられはしないか。
 第三に、単純に使用頻度に関わる問題なのではないかとも思う。「茶化す」や「冷やかす」や「悪態をつく」は、口頭で普段から頻繁に使用されるものではない。使用頻度が低いことで慣用化がなされないことは充分に考えられる。

■最後に
 最近は、「ふざけるな」の意で「ふざけろ」という言葉が目につくようになったと私は思っていたが、人によっては全く見たことも聞いたこともないという。Googleで検索をすると約49,700件がヒットする。その中には「ふざけろ」という表現について議論を交わしている場もあり、また「ふざけろ」を聞いたことがあるかということを投票しあっている場もあった(コトノハ http://kotonoha.cc/)。近年はネットやメディアなどの発達や多様化もあって、「ふざけろ」は慣用化に急速なスピードで浮上した言葉なのかもしれない。個人的には未だに違和感を覚える表現ではあるが、たった四文字だけで強いインパクトを受けるため、耳に残る表現だと思う。今後、同様に新たな慣用句が生まれる可能性は高いだろう。
●特殊な命令表現について● 内野 樹
 本来、命令表現とは、「話し手が、話し手が希望する動作・行為を実現するよう聞き手に言いつけることをいう」ものである(明治書院『日本語文法大辞典』)。
 しかし、会話文中においては、時折、話し手が話し手自身という形で一人称(私)に、また、通常の命令表現の対象者である二人称(あなた)以外に向けて命令する表現が見られる。そこで、そのような特殊な命令表現について考える。なお、本論では、動詞の命令形、及び禁止の終助詞「な」のついた文を取り上げる。

T.一人称に対する命令表現

 一人称に対する命令表現として、許容されると思われるものを以下に挙げる。

1(何か問題を出されて分からない自分に)考えろ、考えろ。
2(頑張らなくてはいけないときに頑張っていない自分に)頑張れ、俺。
3(寝てはいけないときに寝てしまいそうな自分に)寝るな、起きろ。
4(泣いてはいけないとき、または泣きたくないときに泣いてしまう自分に)泣くな。

 このように、一人称に対して命令する背景には、自分の意思と反し、また、自分ではコントロールできない状況を変化させようという心の動きがある。このときは「もう一人の自分」を想定し、それに命令しているとも考えられる。
 そこでの動詞について考えてみると、文脈が整えば大体の動詞の使用が許容されると言えるが、許容されないと思われる例を以下に挙げる。

5 来い。
6(ものを)くれ。
7 集まれ。
8 散れ。

 5・6は本来相手を自分のもとに向かわせる命令表現であり、自分以外の相手の存在が必須である。よって、自分自身に向けて使用するのは不可能である。7もその一種と考えられる。8は主語が複数であることが前提であるため、話し手から自分への命令には適さない。よって使用不可である。

U.一人称・二人称以外に対する命令表現

 一人称・二人称以外に対する命令表現を以下に挙げる。

9 アメリカ兵は帰れ。
10 政治家は謝罪しろ。
11 子どもは早く寝ろ。
12 有権者は政策で首長を選べ。
13 大学生はもっと勉強しろ。
14 一番バッターは塁に出ろ。
15 日本人スプリンターは100メートルで9秒台を出せ。

 これらの例は珍しい例とは言えず、許容されると言えるが、これら9〜15の「命令の対象」を三人称の人称代名詞「彼」に置き換えた例を以下に挙げる。

16 彼は帰れ。
17 彼は謝罪しろ。
18 彼は早く寝ろ。
19 彼は政策で首長を選べ。
20 彼はもっと勉強しろ。
21 彼は塁に出ろ。
22 彼は100メートルで9秒台を出せ。

 これらは許容されるとは言えず、非文である。
 このことから、9〜15は三人称に対する命令表現であるとは考えにくい。すなわち9〜15は「命令の対象」が眼前におらず、二人称の命令表現が取れない場合、また、眼前にいても、二人称の命令表現を取りたくない場合に、用いられるものである。
 つまり、特殊な命令表現というのは、実は存在せず、一見、二人称に対する命令表現のように見えない命令表現も、話し手の意識においては、常に二人称の存在に相当するものを想定して発言している、と考えられる。

結論

・ 命令表現は基本的に二人称に対してなされ、特殊な命令表現はその類例である。
・ 特殊な命令表現である一人称に対する命令表現は、使用上、制約がある。
●若者ことばにおけるぼかし表現● 鳥井 美紀
 若者ことばにおけるぼかし表現には、文末をあいまいにする「とか」の他にどのようなものがあるのか。ぼかし表現を用いた文を三つ挙げる。

@お荷物の方お持ちします。
Aわたし的に大丈夫。
Bねぇ、そこ邪魔っぽいよ。


 それぞれについて、以下に考察する。

@について
 「方」は本来、方面・方向を表す名詞であり、同時に対象を特定せずぼかす機能がある。(たとえば「港へ行った」と「港の方へ行った」で、後者は目的地が必ずしも港であるとは限らない。) その機能から自分の職業・所属などを尋ねられたときに「音楽の方の仕事です」などとわざとぼかして言い、慎み、謙遜、プライバシー保持の姿勢を示す用法が派生した。
 また日本語には直接的表現を避けることが美徳であり、丁寧な表現であるという考えがあり、その考えに基づいたぼかし表現にはしばしば方向を表す名詞が用いられる。たとえば人を指す場合「この人」よりも「こちら」、「だれ」よりも「どちら」という語を使う方が丁寧とされる。
 よって@の文における「方」は、これらの、方向を表す名詞のぼかす機能によって、丁寧さが増すことを期待して用いられているものと考えられる。

Aについて
 「的」は漢語について直接、または「な」をともなって連体修飾語として用いられるほか、形容動詞語幹として使われる。本来和語である「わたし」にはつかないが、「的」の持つ「それに関する・それについての・その方面にかかわる」などの意味が拡張され用いられるようになったと考えられる。
 Aの文は「(他はどうかわからないが)私としては大丈夫」などという意味であり、他者の意見の存在を意識した相対的な表現と言える。ここで「的」を用いず「私は大丈夫」と言うと、係助詞「は」の持つとりたての用法により、些か自己中心的な発言ととられかねない。
 よって、他者との関係を損なわぬため、「的」が用いられたものと考えられる。

Bについて
 「ぽい」は名詞、動詞の連用形などについて「そのような状態を帯びている」意を表す接尾語である。「ぽい」をつけることで「それそのもの」ではなく「それの割合が多い」程度に意味をぼかすことができる。
 Bの文では話者は相手が邪魔であると認識しているが、はっきり「邪魔だ」とは言わず「邪魔っぽい」として断定を避けている。邪魔であると断定することで相手に与えてしまうであろう不快感を「ぽい」を用い表現をぼかすことによって軽減しようとする意図が感じられる。

 結論として、一般に、ぼかし表現は直接的表現を避け相手との関係や相手の心情に配慮する(または配慮していることを示す)為に用いられる、と言える。
●半クエスチョンの機能● 津田優香里
 半クエスチョンとは、文中のことばの語尾を尻上がりのイントネーションで発音することである。「半疑問形」または「語尾上げ」とも呼ばれ、普通の疑問文とは異なり、肯定の形で見られる現象である。これまで明らかにされているところでは、その機能は大きく二つに分けられる。

(A)普段使い慣れていないことばや、よく知らない単語のあとに用い、その表現が適切なのかどうかを聞き手に確認する機能

 〔例1〕「京都ではいろんなところを回りましたけど、中でもあの、三十三間堂?が印象的でした」

(B)自分は理解しているが聞き手が理解できない可能性がある表現のあとに用いて、自分の言っていることを聞き手が理解できているかどうかを確認する機能

 〔例2〕「そこから二つ目の交差点?を右に曲って」

 (A)・(B)の機能はいずれも、話し手が、その言葉の選び方、使い方にミスがあるのではないか、聞き手にその表現では通じないのではないか、といった不安がある場合に用いるもので、その自信のなさが半クエスチョンとなって表れているとされる。つまり半クエスチョンの使用は、「この表現で間違いがあったり、だれかを傷つけたりするような問題があったらゴメンナサイ。だから、その気持ちの証明のために半クエスチョンを使って、強い断定を避けているのです」というストラテジーだと解釈できるとしている。
 しかし、半クエスチョンの機能は必ずしもこれだけであるとはいえない。例文を挙げながら、この他の機能を考察していきたい。

(C)断定口調を避けることで、強調したいことを角を立てずに伝える機能

 〔例3〕「やっぱり今の若い人の、日本語の乱れ?は気になりますよねぇ」

 この機能は、自信のなさの表れである半クエスチョンのそれとは性質が異なる。〔例3〕で、話し手は「日本語の乱れ」を指摘する上で、それを強調するために語尾を上げて言っているのである。ここで断定口調での強調を避けているのは、聞き手にきつい印象を与えないようにするためであり、控えめな印象である半クエスチョンを使うことで角を立てずに会話を進めたいという気持ちが表れているといえる。

(D)強調したいことに感情的な意味合いを含ませ、さらにその表現を強める機能

 〔例4〕「ブロックの角に、足の小指のとこ?ガッてぶつけちゃって」

 (C)の機能とは逆に、断定での強調よりも半クエスチョンを使うことでより強く強調する機能もあると考えられる。〔例4〕の場合、たとえば「足の小指のとこ!」などと語尾を上げずに断定して言うよりも、語尾を上げることによって「信じられる?よりにもよって」というようなニュアンスが付加され、より強い強調をすることが可能なのである。

(E)聞き手の注意を自分の方に引き付ける機能

 〔例5〕「私昨日?飲み会で?飲みすぎちゃって」

 これは〔例1〕〜〔例4〕においても働く機能であると考えられるが、〔例5〕では、ことばの語尾を上げて聞き手に投げかけるように話すことで、聞き手の注意を自分の発言に引き付けようとしているのである。これは「昨日ね、ママとね、お買い物に行ったの」というような幼児の話し方と共通しているように思われる。
 以上のように、半クエスチョンの機能には、従来の論で指摘される(A)・(B)のような聞き手に確認を求めるものの外に、(C)・(D)のように強調するものがあり、さらに(E)のように聞き手の注意を喚起する機能については、いずれにも包括的に働いているということが考えられる。

[注]文中の?は上昇音調を示す。

●副詞「くさくさ」について● 下田 悠
1.1 夏目漱石の『坊ちゃん』の一節に「くさくさ」という言葉が出て来たが、私はこの言葉を知らなかった。この聞きなれない言葉について、意味、その成り立ちを調べてみようと思う。


1.2 まず、「くさくさ」の言葉の意味について調べてみる。私は、その語感から「むしゃくしゃする」に近いものではないか、という予想を立てた。

 くさくさ【副詞】(日)
 ○腹をたてたり、憂鬱だったりして心がはればれしないさまを表す語。
 [用例]
  ・この人のなさを思いつづくるにこそ、あだにくさくさ心もなりて
  (愚管抄-七)
  ・くさくさとなるよしのくさ也
  (名語記-九)
  ・それだから、変助さんもくさくさとして捲果たのよ
  (滑稽本・浮世床-二・上)
  ・此日来老婢も鬱々して、病人の枕頭にも附いてゐるやうに
  (多情多恨<尾崎紅葉>前・四・二)

 くさくさ(と)【副詞】(角)
 ○気がくさって晴れ晴れとしないさま。むしゃくしゃ。

 二つの辞書で調べてみたが、特に違いはなかった。どうも心情、それもあまり良くない状態を表した言葉のようだ。古語的な意味で私の予想は当たったようだ。
 初出は鎌倉時代のようだが、それ以降の文献には登場しないようで、江戸時代にまたでてくる。古典文学の総索引を幾つか調べてみたけれども、日本国語大辞典に掲載されているもの以外はでてこなかった。
 なお、日本国語大辞典には「くさくさし」という形容詞が掲載されていたが、角川古語大辞典には掲載されていなかった。

 くさくさ・し【形容詞・シク活用】(日)
 ○ごたついてわずらわしい。
 [用例]
  ・あとより恋のせめくれば、諦めがたく、またもやくさくさしき事申しあげまいらせ候
  (人情本・人情廓の鶯)

 「くさくさし」の初出は人情本なので、「くさくさ」よりもあとに成立した語だとわかる。おそらくは「くさくさ」より派生して出来た言葉なのであろう。私なりに咀嚼していうならば、「気分を害するような出来事が起きたときに晴れ晴れしない気持ちになること」であろう。


1.3 次にインターネットの検索サイトで「くさくさ」をキーワードに検索をかけてみたところ、100件近く出て来たが(中には全く関係の無いものもあった)、その内、「副詞」としての「くさくさ」で掛かったものは半分くらいであった。その多くが日記やエッセイなどに使用されている。
 ということは、「くさくさ」という語は現代でもその数は多くはないけれど、使用する人がいる、つまり消え去った言葉ではない、ということになる。
 しかし、そう目立って使用されなくなったのは同じ様な意味をもつ言葉が存在するからではなかろうか。そういった観点から、最近よく使われる心情をあらわす語、「むかつく」との意味の関連性を調べてみることにする。

 むかつく【自動詞】(日)
 ○はらが立つ。立腹する。しゃくにさわる。
 [用例]
  ・敷銀はむかつく時の礫たて
  (雑俳・すがたなぞ)
  ・その面なんぢゃ。むかついてどうさらす
  (歌舞伎・百千鳥鳴門白浪-大序)

 「くさくさ」は腹を立てた時以外でも憂鬱になった時も使われる。すなわち、「むかつく」は怒りの心情しか表さないのに対して、「くさくさ」は怒りの感情だけでなく、落ち込んだ時の感情など、マイナスの感情をあらわしている。
 よって「むかつく」と「くさくさ」は部分的には重なるものの、同じ意味とは到底いえない。


2.1 また違う観点から、調べてみる。「くさくさ」という語は「くさ」という二音からなる語を繰り返した言葉なので「くさ」自体になんらかの意味がないかと考えてみた。思い当たるのが「腐る」である。「くさくさ」の「くさ」は「腐る」の「くさ」ではないだろうか。さしあたって「くさ」という語を調べてみた。

 くさ【語素】(日)
 ○定まらないさまを表す。   [例] どさくさ・ちょぼくさ・ちょびくさ
 ○小うるさい気持ちを表す。  [例] ごてくさ・ぶつくさ
 ○皺のよったさまを表す。   [例] もめくさ

 「くさ」という語はあったが、語素であり、「腐る」とは関係がないようだ。この語素「くさ」を基準に考えると「くさくさ」が意味のある「くさ」という語を二回繰り返したものというわけではないようだ。しかし上の二番目の意味は、少し当てはまる部分があるので、「ごてくさ」、「ぶつくさ」の意味を調べてみよう。

 ごてくさ【副詞】方言(日)
 ○文句などを言うさま。ぐずぐず。
 [用例]
  ・ごてくさ言って困る(京都・大阪)
 ○物事がもめるさま。いざこざ。(滋賀・京都・和歌山)

 ぶつくさ【副詞】(日)
 ○不平や不満をはっきりとしない小さな声で言うさまを表す語。ぶつぶつ。[方言]不平をいうさま。(茨城・東京・神奈川・大阪)
 [用例]
  ・すぎはぶつくさ云ながら
  (浄瑠璃・甲賀三郎)
  ・テレ秘しの口小言を聞えぬやうにブツクサ罵りつつ
  (社会百面相<内田魯庵>電影・四)

 意味的には「くさくさ」に通じるところがあるとはいえないようだが、二語とも、語素「くさ」を除いた上二文字を繰り返すことで同じような意味の言葉になるようだ。そこで「ごてごて」、「ぶつぶつ」の意味も調べてみた。

 ごてごて【副詞】(日)
 ○物事が乱雑になっているさま、物事が入りくみ混雑し、もめるさまを表す語。ごたごた。
 [用例]
  ・ごてごて、ごたごたなり(浪花聞書)
  ・ソソそこへ二本入たらどむならんがな、何じゃごてごてしてオオしんき
  (咄本・臍の宿替-飯蛸にぱっち穿かす人)
  ・旦那が見世へ帰って来て、何だかごてごてして居るから
  (歌舞伎・処女評判善悪鏡(白浪五人女)-五幕)
 ○ぐずぐず言うさま、くどくど言うさまをあらわす語。
 [用例]
  ・あれをいほうばかりに。いろいろの事をごてごて言ふたのぢゃ
  (洒落本・箱まくら)
  ・ヤレ待てゐた待てゐた、ごてごてなしにすぐに芸評が聞たい
  (評判記・三題噺作者評判記-霧の家梅我)
  ・其時には大抵大阪の言葉も知て居たから、都(すべ)て奴の調子に合わせてゴテゴテ話をすると
  (福翁自伝<福沢諭吉>雑記)
 [方言]
 ○物事のもめるさま。ごたごた。
 [用例]
  ・ごてごてする(滋賀・奈良・鳥取・香川)
 ○怒るさま(奈良)

 ぶつぶつ【副詞】(日)
 ○ことばを口先で発するさまを表す語。つぶつぶ。
 (イ)経を唱えるさま。
 [用例]
  ・ぶつぶつ看経(かんきん)する婆が
  (浄瑠璃・持統天皇歌軍法-二)
  ・口に唱名ぶつぶつと仏壇明て取出す
  (浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)-野崎村)
 (ロ)一般に小声で物を言うさま。
 [用例]
  ・ぶつぶつと独言を言ひける内に
  (仮名草子・竹斎-上)
 ○不平や小言を言うさまを表す語。つぶつぶ。ぶつくさ。
 [用例]
  ・ぶつぶつこごとをいいながら行過る
  (滑稽本・東海道中膝栗毛-初)
  ・客の中には最う三時間も待たされたとぶつぶつ呟くのも聞える
  (魔風恋風<小杉天外>後・執持・一)

 「ごてごて」や「ぶつぶつ」をインターネットで検索したところ、どうもこの二つは擬態語になるようだ。そうなってくると「くさくさ」も擬態語になるのではないだろうか。


2.2 そこで、「くさくさ」を擬態語とした上でしらべてみることにする。

 くさくさ(擬)
  物事が思うように運ばなかったりして、おもしろくない気持。気が晴れない様子。

 擬態語となると、その語自体は、その感情を音にして表したものとなってくるので「くさ」が意味のある言葉を繰り返しているといった考えは当てはまらないことになる。擬声語擬態語慣用句辞典には「くさくさ」と「くしゃくしゃ」という同じようなものがあり、それらは元は同じ語であったと思われる、とも書いてある。


2.3 話を戻す。「くさ」は「腐る」とは直接的な関わりがないとされたが、意味的には重なる部分がある。

 くさる【腐】自ラ五(四)(日)
 ○活気がなく、ゆううつになる。また表立った活動をしないで、世にうもれる。めいる。

 くされ【腐】名詞(日)
 ○気持ちが重いこと。くさくさしたり、くよくよしたりして気が進まないこと。気のくされ。

「くされ」の意味において「くさくさ」がでてくる。「くさくさ」と「腐る」には直接的な結びつきはないものの、無関係とはいえないようだ。


3.1 以上、副詞「くさくさ」について調べてみた。今回わかったことは、以下の通りである。
@「くさくさ」は「気がくさって晴れ晴れとしないさま。むしゃくしゃ。」という意味である。
A「むかつく」と「くさくさ」は部分的には共通した意味を持つ。
B「くさ」というのは語素である。
C意味のある「くさ」という語の繰り返しではないようである。
D「くさくさ」は擬態語である。
E「腐る」の一部の意味において、重なる部分がある。
F私はまだまだ勉強不足である。

<参考文献>
(日)…『日本国語大辞典』 小学館
(角)…『角川古語大辞典』 角川書店
(擬)…『擬声語擬態語慣用句辞典』 東京堂出版